20歳の夢
20歳の頃、ニューヨークのエンパイアステートビルで宣言した夢
僕の結婚式の時、淳が友人代表として延々と18分間もスピーチをしてくれたのを覚えていますか?あの時は淳の形式にとらわれない自由で友情あふれるハチャメチャなスピーチにみんなが笑顔になり、そして感動していました。18分間にはならないと思いますが、同じ町に生まれ、二人で走ってきた時間について、書いてみたいと思います。
はじめて淳を見たのが互いが12歳の時。日本人離れした濃い顔立ち、強い目の力が印象的でした。一度見ただけで絶対に忘れない存在感がその時からありました。そして、私たちは3年間の同じ中学で過ごします。ただ、互いにほとんど話したことがなかった。
記憶に残っているのは、2つです。僕が淳の弁当のうまそうな唐揚げをとって食べようとした時。淳はいきなり弁当に自分の唾をペッペッとかけて、阻止してきました。「なんてことするんだ」と予期せぬ行動に驚愕した僕を見て淳は大笑いしていましたね。
もう一つは、面白いギャグを連発してクラスメイトを笑わせている明るい淳を見て僕が「淳は何も悩みがなさそうでいいなあ」と言ったとき。淳は無言でグッと僕をにらんできました。その目は「お前は何もわかってないな」と訴えかけているようで、少し怖かったです。
淳と僕の人生が交錯しはじめたのは、互いが高校生になった時。淳は韮崎高校へ進学し、僕は甲府市内の別な高校へ進学しました。そもそも中学時代もろくに話さなかった二人が別な高校へ進学したわけですから、もう話すことはないと思っていた。
だけど、違った。僕はとても悩みやすい性格で高校1年生の時に高校を中退し、家にとじこもっていました。その時からです。毎日のように、ではなく、まさに毎日、必ず、1日1回、平賀淳が僕に電話をしてきました。
はじめはギクシャクしていた二人の会話。それを察してか淳は韮崎高校での楽しい話をたくさんしてくれました。少し無理矢理に。そして頭でっかちになって悩みがちな僕に「俺のいる韮崎高校にきなよ」と誘ってくれたのです。
そして、淳に導かれるように僕は再度高校受験をし、1年遅れで淳のいる韮崎高校に入学しました。無事に入学したら、毎日かかってきた淳からの電話はなくなりました。中退して家にいた半年間、必ず電話をくれた淳。そんなことしてくれた奴はいない。学校に入りなおして楽しくしている僕を見て「もう大丈夫だ」と思ってくれたのかな。
20歳の頃には一緒にニューヨークに行きましたね。エンパイアステートビルの屋上で互いの夢を宣言しようとなり、ビデオを撮ったのを覚えているかな?淳の夢はエベレスト登頂、僕の夢は作家になることだったね。
山岳カメラマンとして着実に実績を積み重ね、淳の夢はその8年後にかないました。2007年の5月にエベレストに登頂。はやくも夢を叶えた人生になりました。その時、僕はといえば、いろいろと下手をうち、精神に不調をきたし、相当にまずい状況になっていました。
エベレストから帰国したその日に震える僕を心配して、家にとめてくれ、抱きしめ、手をつないで夜を過ごしてくれた。翌日に立川にある精神科へ同行してくれて、入院などのいろいろな手続きをしてくれた。2か月後、ようやく少し元気を取り戻して退院できた僕を、花束を用意して立川の駅で待っていてくれたあなたは僕のまぎれもない命の恩人です。
エベレスト登頂後も平賀淳の躍進は続きます。山岳カメラマンとしてまさしく世界を股にかけた活躍。引く手あまたの状態。飛ぶ鳥を落とす勢いとはこういうことか、と思ったものです。
何故にあんなに仕事がくるのか。ある人は「淳のおもしろいキャラ」と言い、ある人は「淳の人徳」と言い、またある人は「若くて体力があるから」とも言った。それらも一理あるけど、本質は僕は違うと思っていた。淳は元々はズボラな方で、片付けも得意ではないよね。淳の部屋に行くといつも散らかっていて、僕が注意する、みたいな関係だった。
でも、ある時、数年ぶりに淳の仕事部屋を見てわかった。完璧に整理されたデータ、几帳面にとられたノート、整然と並ぶ書籍、最新技術へのあくなき探求、引き込まれる独自の仕事哲学、毎日欠かさないトレーニング。「男子三日会わざれば、刮目して見よ」とはよく言ったもので、高校時代のズボラな淳はそこにいなかった。僕は痛感したよ。淳は人知れず努力をしたんだなと、自己を鍛錬したんだなと。そして、いつの間にか淳の仕事はプロフェッショナルなものになっていたんだとわかった。それこそが、淳に仕事がたくさんくる理由だよね。そして、気づけば平賀淳は日本一の山岳カメラマンになっていました。
僕はそんな淳が羨ましかった。まぶしかった。時にその活躍を見るのがつらい時もあった。何故なら、僕は淳のようにキラキラと生きていなかったから。
そんな時、また淳が僕に言った。「夢を忘れたのか」と。「作家になるんじゃなかったのか」と。さらに「元喜はノンフィクションが向いてるぞ」と具体的なアドバイスをくれたね。
そして、僕は淳を追いかけるように3年前、40歳で最後の挑戦としてノンフィクションの執筆にトライした。その間、淳はずっと僕の隣で伴走してくれたね。何度も何度も原稿を読んでくれて、きわめて示唆に富んだ具体的なアドバイスをしてくれた。僕は淳に編集協力のお金を払わなきゃいけなかったね。そのくらい一生懸命で誠実で鋭い指摘だった。人間をどう描くか、についてとことん議論した。そのやり取りは平賀淳という人間を知る旅でもあったよ。
「必ずかなう」と言い続けてくれて、本当に書籍になった時、淳は僕よりも喜んでくれた。書籍のカバー表紙は淳の写真で、僕はそのことがとても嬉しかった。発売日に二人で飲んだ。なんだか照れ臭かったけど、いい酒だったなあ。少しだけ淳に近づけた夜。これがスタートで、いよいよ淳と本格的に人生について、人間について語り合うことができるぞ、なんて思っていた。まさに刎頚の友とは淳と俺のことだと感じ入った夜だったよ。
あの夜、なぜか珍しくツーショットで写真をとった。いい写真だった。まさにベストショット。二人きりの写真なんて、いつ以来だろう。まったく思い出せない。でも、まさかそれが最後の俺たちの写真になるとは夢にも思わなかった。
今回の訃報を受けた後のこと。まるで知らない方から何人か僕に連絡があった。「平賀淳さんが『親友が書いた本です。是非読んでください』と送ってきてくれたんです』と」。俺に内緒でそんなことをしてくれていたんだね。高校時代とはまるで違うプロの山岳カメラマンになったけど、高校時代から何も変わらない淳の優しさに俺は大泣きしたよ。
そして、その優しさの対象は決して僕だけじゃない。淳はみんなに対して、今話したように、僕にしてくれたように優しい男だった。だから淳はみなに今も愛される。
日本中、世界中の絶景をとり、人間存在に迫り、一流の仕事をし、誰よりも人生を生きて、とことん楽しんだ。普通の人が一生かかっても体験できない素晴らしい時間を何十倍も淳は味わうことができた。色々と作品をとってきた淳に言いたい。なによりもあなたの存在が、生き様が、人に勇気と希望を与える作品ともいえるのではないでしょうか。
高校時代、毎日必ず僕に電話をくれたように、僕もこれからの人生、毎日あなたを想います。
また、人生と人間について、語り合おう。
小林 元喜
motoki kobayashi