淳へ
参りました・・・
本当に参りました・・・
ヒマラヤから帰ってきたら日本は大騒ぎ。
報道で「山岳カメラマンの第一人者の平賀カメラマンの遭難」と大きく報じられているし。
お前さん、いつから山岳カメラマンの第一人者になったんだい。白旗史郎先生も驚いているぞ。
そんな事よりも
淳くん、今どこで一体何をしているんだい。
今日も淳くんと久々の再会で二人の会話なのに後ろには大勢の人がいて、
何がどうなってしまったんだい。もう、僕にはよくわからない。
この世界では山で仲間を失う事がある。その度に僕らはとてつもない喪失感と背負いきれない苦しみの中で、それでも山で逝った仲間の分も必死に生きようと山に登り続けてきた。けいちゃんの時もそうであったように。
しかし、今回ばかりは・・・僕にそれができるのか。自信がないよ。
2002年、淳君がいきなり僕の前に現れて「エベレストに連れて行ってください。カメラマンをやらせてください」と。「カメラは持っているの?」に「ありません。健さんのカメラを貸して下さい」と。気がついたらエベレストの清掃活動についてきてカメラを回していましたね。ただ、呆れたのはベースキャンプで僕を撮影中に淳君が転んで。普通、カメラマンはカメラを守るようにして転ぶのに、お前さんはカメラを地面に向けたまま転んで、見事に壊したよね。更に驚かされたのは「もう一台、予備のカメラを貸して下さい」とニコニコ顔で。本当ならカチンときてもいいはずなのに、淳のあのニコニコ顔は反則だね。そして気がついたらシェルパ達とも溶け込んで、いつの間に野口隊のど真ん中に収まっていたね。
瞬間的に皆の懐に飛び込んで、そしてあっという間にみんなに愛されて。けいさんもそうだったね。二人は僕とっての太陽でした。
そのけいさんを失い、計り知れない喪失感のなか、僕らは支え合うように、ヒマラヤに登り続けてきたね。いつだったかな、3人で「植村直己さんは43歳の時に遭難した。僕らは43歳の時には気を付けようね」と話していたのに、どうして二人してまるで合わせたかのように43歳で逝ってしまったんだ。もう、僕だけが残ってしまったじゃないか。
この三週間、淳との思い出が頭を駆け巡るんだ。
シシャパンパに登った後、二人してヘロヘロになって最終キャプに戻ってきた時のことも忘れられないよ。寝袋を一つしか荷揚げできず、二人でその一つの寝袋を開いてかけて寝たけれど、ふと目が覚めると、僕にだけ寝袋がかかっていて、「おい、淳、お前、寒いだろう」といって淳にも寝袋をかけたが、気がつくとまた僕だけにかかっていて。僕が寝ると淳は僕だけに寝袋をかけていたよね。だから「もういいから一緒に寝るぞ!」と最後は抱き合って一枚の寝袋で寝たね。お前は雪目で「目が痛い」「周りがあまり見えない」と大変な状況だったのに、なんで寝ないで僕に何度も何度も寝袋をかけてくれたんだ。それではどちらが隊長か分からなくなるじゃないか。
2019年のマナスルの挑戦の時も淳の優しさが忘れられないよ。最終キャンプで不安定な天候の中、山頂に突っ込むのか決断できずテントの中で一睡もできず悩みもがき苦しんでいたが、お前さんは真横で「ガーガー」といびきをかいて寝ていてね。淳の寝顔を見ながら、こんな時によくガーガー寝られるものだと。僕は呆れたよ。でも、その寝顔を眺めていたら、なんだかとても愛おしくてね。しばらく見つめてしまったよ。「山頂にはアタックをしない」と僕が決断して、淳にそう伝えたら、一言「分かりました」。
淳、お前、本当は登りたかったんじゃないか。下山を開始しながら、果たして自分の判断が間違えていなかったのか、自問自答していたけれど、雪の中、ベースキャンプの入り口まで降りてきた時に、僕は何故かそこで足が止まってしまい、しばらくたたずんでしまったね。敗北感がそうさせたのかな。
その時、淳は無言で僕の手をぎゅっと握ってきたね。そして僕に「生きて帰るという僕たちの約束は果たせましたね」と。それから二人して無言でベースキャンプを眺めていたけれど、あの一言にどれだけ救われたことか。そしてあの握ってくれた淳の手の温もりがいまだに僕の手に残っているよ。あの時は照れくさかったのかな。「ありがとう」と言えなかったけれど、心から淳の優しさが嬉しかった。今更だけど「ありがとう」。
僕はいつからだろう。淳のことを弟のように感じていた。いや、本当に弟だった。
だからかな、いつもは山仲間の山での遭難は、時間はかかっても受け入れる事ができましたが、今回ばかりはとても難しい。頭では分かっていてもとても難しいんだ。
なあ、淳、お前は、本当によくここまで頑張ったな。出会った頃はカメラすら持っていなかった淳が、たかだか二十年間で「山岳カメラマンの第一人者」とまで呼ばれるようになった。
よくぞ、そこまで登り詰めたな。
本当に凄いことだよ。お前さんはカメラマンとしても人間としても一流だ。
そして皆に愛されたよ。
淳の遭難の知らせにシェルパ達もみな、泣いているぞ。
なあ、マナスル、どうしようか。
淳は「今度こそマナスルで『。』を付けましょう」と何度も僕に話していたけれど、僕は淳のいないマナスルは情けない話しだけれどムリだわ。つくづく実感したけれど、僕たちは二人でワンセットだったんだよ。
もう山を辞めようかと、そんな事も考えてしまう。
でもね、淳がどうしても「マナスルに挑戦したい」というのならば、話しは別だ。
その時は僕に合図を送ってください。やろう!!!
ただ、一つ、お願いがある。一緒にマナスルに挑戦するまでは成仏しないでほしい。だから僕は、ご冥福はお祈りいたしません。決して。ただ、世間体もあるだろうから、成仏したフリだけはしておいてくれ。
それとトレーニングも忘れずにね。たまには、いつもの多摩川トレーニングの様子をツイッタにアップしてもいいよ。僕は「いいね」するから。
淳、またいつの日か、一緒に山に登ろう。
それまでくれぐれも体には気をつけてね。
ここでは、お別れしないからね。
ではまた。
近々、やろう。
2022年6月10日(弔辞)野口健
~追伸~
淳くんがいなくなってから10ヶ月。少しずつだけれど前に向かって歩み始めています。
年末年始にヒマラヤに行ってきたけれど、シェルパたちも皆、深い悲しみの中、それでも淳くんの思い出話をしていたよ。特に淳くんと仲の良かったデェンディーは「僕は遭難を信じていない」と声を振り絞るように話していた。やっぱり淳は皆に愛されているね。改めて淳くんの偉大さを失ってみて心底に痛感したよ。淳くんとの出会いは間違いなく僕の心を豊かにしてくれたんだと。未だに心に空いた大きな穴は塞がっていないけれど、でもね、もう無理して埋めようとするのはやめたよ。
けいさん、淳くんと先立ってしまい「取り残されてしまったな」と寂しいけれど、ここから先は一人旅だ。淳くん、けいさんの眩しい程の面影を胸の中に大切にしまっておくね。
「太陽のかけら」二つ、ポケットに忍ばせてマナスルに向かうことにしたよ。一つ、お願い。マナスルに挑むときにはちょくちょく僕の夢にでてきて僕は励まして下さい。これ約束だよ。では、マナスルでまたね。必ずだよ。
野口 健
ken noguchi