ラストシーン
2022年5月、アラスカ・ハンター北壁への挑戦。そこに同年代の平賀さんが映像作成に駆けつけてくれた。北壁の下、彼の構えるカメラに、僕は自分の心の奥底を映しだされた。それが糧となり、最後の力まで振り絞る登攀に。山頂を超え、氷河に降りると、平賀さんはいなくなっていた。受け継ぐべき、平賀さんからの炎のバトン。


アラスカの空に夕暮れが訪れようとしていた。頭上には空に向かって、1300mにも及ぶハンター北壁がそびえている。
ここから白夜の薄明りの中、冷え込んで雪が安定した「フレンチガリー」を登る。翌日、その上の複雑なミックス帯を登攀。その後、中央の「ムーンフラワー」に合流した後、何度かビバークを繰り返し、頂上を越え、西稜を下降する。それが私とパートナーの鈴木啓紀が考えたプランだった。
私たちのそばでは、平賀淳さんがカメラを構えている。彼は氷河に残り、望遠カメラで私たちを撮影してくれるのだ。
登攀の準備を終えると、私はカメラに向かって最後に何かを話さなくてはと思った。カメラをまったくぶらすことなく、平賀さんがこちらを見て言葉を待っている。
平賀さんと、こうしてフィールドで活動するのは10年ぶりのことだった――。

平賀さんとの出会い
平賀さんと初めて会ったのは18年前。私が24歳、彼が25歳の時だった。
私は、大学山岳部で4年間過ごしたあと登山を専門とする出版社で働いていたが、そこを2年余りで辞めていた。そして、地元静岡に戻り、ガスの配管工事の仕事についた。平賀さんと会ったのは、静岡に戻った直後のことだった。富士山麓で行なわれていた環境教育のキャンプに参加した義弟を迎えに行くと、その記録カメラマンとして平賀さんがいたのだ。
「それが前からやりたいことだったの?」
初対面の平賀さんはいきなり私に聞いてきた。「労働は生活のため」と考えはじめていた私が、適切な答えを見つけられずにいると、彼は「僕は登山やアドベンチャーレースのドキュメンタリーを作りたいんだ」と語りはじめた。彼は日本映画大学を卒業した後、フリーのカメラマンとして野外のイベントを撮影しているという。早口でペラペラペラペラとしゃべり続ける姿に、映像という美術的なことよりも、売り込みの営業に向いているのではと思った。正直「口だけではないか」と感じていたが、その後、本当に平賀さんはアドベンチャーレースや登山のテレビ番組の撮影を行なうようになった。
私は、彼のアシスタント仕事に何度も誘われた。後にカメット南東壁を登り、世界的な山岳賞を受賞することになる谷口けいさんも来ることがあり、彼女ともそこで親しくなった。
3日3晩、不眠不休でアドベンチャーレースを取材し、最後は眠気覚ましに円陣を組んで奇声を上げてから撮影にあたる。そんな体力任せの撮影も度々だった。
2006年には、スイスアルプスの4000m峰に障がい者が登るというテレビの企画に参加し、日本にはない針峰群のなかでカメラを回すことができた。平賀さんに巻き込まれる形で、いろんな場所に行ったが、まさか海外まで行くことになろうとは。私は、帰りの飛行機で疲労と達成感に包まれていた。だが、隣に座っていた平賀さんはもう次の取材の企画を練っていた。ここに行こう、あそこにも行こう、そんな平賀さんの言葉に私は生返事をしていた。
「お前は次に何がやりたいんだ?」平賀さんはそんな言葉をかけてきたが、私はそれよりも翌日から再開される日々の業務のほうに気を取られていた。その時、平賀さんが言った言葉が忘れられない。
「勢いがなくなったら青春は終わりだぞ」
その言葉どおり、翌年、彼は最新機器を背負いエベレストに登り、世界最高所からの風景をハイビジョンカメラに収めた。
彼の行動に刺激された私は昼間の本業の後の夜に、山岳雑誌の編集作業を時々するようになった。へたなモノクロページしか作れなかったが、平賀さんは「お前の中に冒険を表現したいという気持ちがあるからこういうものが作れるんだ」と言ってくれた。そして、こんなふうにも語っていた。「自分しか持てない情報を集めるんだ。そういうものだけが価値を生むんだ」
やがて平賀さんは、海外のアドベンチャーレースや長期登山の撮影に出かけることになり、私がサポートできるものはなくなっていった。自分で走りながら撮るだけではなく、ドローンも使い、持ち前の躍動感のある映像にさらに磨きをかけていた。
彼が収めた映像は、大手のテレビ会社で次々と放映された。登山をやらない自分の会社の同僚が、平賀さんの映した映像の番組の話をしていることもあった。
カメラの前で、平賀さんがインタビューを受けていたこともある。なぜ過酷な撮影を続けるのかという質問に、平賀さんは「どういうものがみえるだろうか?そういう未知の世界に自分がまず行ってみたいというのが、一番強かった」と、明るい表情で答えていた。
久しぶりに平賀さんと会ったのは、谷口けいさんが北海道の山で亡くなった後だった。けいさんの記録をまとめたいと私が言うと、「やるんだったら開高健賞を取るくらいの気合いで書かないとだめだ。お前ならできる」と平賀さんは言った。数枚のモノクロページしか書いたことがなかった私が300ページを超える本を書くことができたのは、平賀さんのその一言が大きかった。
普段はくだらないことをしゃべり続けているが、そのなかで時折不意に胸をえぐるような鋭い言葉を吐く。それが私の中での平賀さんだった。

再会
けいさんの軌跡を書いた私は、机の上だけでなく、実際の山でもけいさんの足跡をたどってみたいと思っていた。そこで、2019年、けいさんのパートナーだった鈴木啓紀とアラスカへ。彼の地は、けいさんが6回も赴いた場所だ。ハンター北壁をめざしたが、悪天候にファイナルロックバンドの手間で撤退。心身ともにギリギリの状態で下降した私たちだったが、ベースキャンプに降りてきたときの鈴木の言葉は「また行こう」だった。
この敗退から、鈴木と私は日本で氷を登りこんだ。ハンターでの撤退は、客観的に見ても正しい判断だったと思う。だが、もしもっと軽快に氷を登れていたら、悪天の中でも、もう少し上まで行けたはずだ。そして、次にトライする時は、やはりそのアイスのテクニックこそが、勝敗を分ける気がしていた。私も鈴木も40歳を超え、一般的にフィジカルは下降線をたどる年齢になっていたが、意外にもアイスの能力は伸びた。
静岡在住の私と鎌倉在住の鈴木は、山梨で合流し、一台の車で長野の氷瀑に向かうことが多かった。同じ時代背景で育ち、今、同じ社会人として働く私たちは話が合った。
そのせいか、日常のあれこれを話しながら、あまり深い考えや戦略もなく高グレードがつけられた氷瀑に向かっていた。そして22年3月には、錫杖岳最難グレードの氷柱も登ることができた。ハンター北壁再挑戦は、その翌々月の5月に行なう予定にしていた。今回は壁の完登だけでなく、山頂までつなげる計画だ。
この計画を知った映像制作会社が、氷河まで同行取材をすることになった。そこにカメラマンとして起用されたのが、平賀さんだった。私と彼が知り合いだったことに、ディレクターは驚いていた。

3年ぶりに見るハンター北壁は、やはり威圧的な姿でそびえていた。
ディレクターのいう「普通のものは撮るな、ワンカット、ワンカットを惹き付けられる引きの絵にしろ」「機動力ではなくて、三脚を据えて絵の力でも伝えられるようにしろ」そんな言葉を前に、平賀さんは真剣な表情で三脚を据えていた。いつも動きながらカメラを回しているような平賀さんだったが、次のステージに入ろうとしているかのようだった――。
夕暮れのなか、登攀前の準備を終えると、周囲の山々は昼の輝きを失い、北壁は威圧的な表情をより濃くしていた。カメラを私に向ける平賀さんに、登攀前の気持ちを話した。
「週末クライマーにも満たない僕が、この壁を登ることは、常識的に見れば〈無謀〉だと思います。でもけいさんは、自分と山だけを見て、登れる場所を探して登りなさいと言っていた。その視点で壁を見た時、山頂までつなげられるラインが見えました。自分で引いてしまった、ちゃちな境界線を飛び越えて、その向こう側で楽しんできたいと思います」
今思えば、ずいぶんと芝居じみたその言葉も、カメラの向こう側の平賀さんはしっかりと頷いて聞いてくれていた。
3年前にも感じたことだったが、登りはじめてみると壁のスケールは日本とは桁違いだった。「弱点」とさえ見えたそのガリーは、しかし、高度なテクニックと瞬発的なパワーを出さなくてはならない場所が何度も出てきた。ガリーを抜けるころ、私はすでに体力を出し切ったような疲れを感じていた。だが、まだ行程の半分も来ていない。
その先の岩と雪のミックスも「本当にここを行くのか?」と思うほどの強い傾斜があった。しかし、絶悪なピッチを登り切った鈴木は、心強くこう言った。「ようやくアラスカでやりたいクライミングができた」
その隔絶した世界で、鈴木は登攀を心から楽しんでいるようだった。
29時間が経過したところで、二人が腰かけられるだけのスペースを切り崩し「お座りビバーク」。山頂はまだはるか彼方だ。何とかして体力を回復させて上をめざさなくてはならなかった。しかし厳しい寒さに2時間も寝ることができない。
翌日のトラバースは、鋼鉄のようなガチガチの氷に、一手ずつ消耗していった。なんとか19年に敗退した場所のすぐ上まで来るとそこは横になれるテラスがあった。ここでビバークしたいところだが、事前に聞いていた天気予報の好天は明日までのため、まだ駒を進めなくてはならない。
最終ロックバンドのM5のピッチは、氷がほとんどなく、日本の錫杖岳で行なうような難しいドライツーリングのムーブを強いられた。
3度目の夕暮れが訪れようとしていたが、やはり良いビバーク地を見つけられない。急峻な雪を切り崩し、またしても2時間だけの仮眠。寝る間際に見た夕暮れのデナリが、仮眠後にはもう朝焼けに輝いていた。その極北の異質な時空が、普段は気づかない自分の力を引き出してくれる気がした。
しかしその力も、より硬さを増した氷に吸い取られていく。青光りしたダイヤモンドのような氷ではなく、雪が乗った部分を求め、登っていく。壁の終わりは見えていたが、そこが果てしなく遠く見える。日本で氷を登りこんで強くなったつもりでいたが、予想以上に硬い氷の前に、そのトレーニングは意味がなかったように感じていた。ビレイをしていると睡魔に襲われ、数秒間意識が落ちる。その短い瞬間に脈略のない夢を見た。
壁を抜けて雪稜に出ると、二人が寝ころべるスペースを見つけた。しかし、その先には威圧的な岩峰が行く手を阻んでいる。「壁の完登」はできたのだ。その成功を手に、そこから下降するのが、賢明な判断だったと思う。
だがその時、登攀前に自分が言った言葉が思い出された。「山頂までつなげられるラインが見えました」
その言葉の向こうで頷いている平賀さんがいる。その残像が見えた時、「行くべきだ」そう強く思った。

顔を上げると、地平線の彼方まで、峻峰が連なっていた。現実離れしたその光景を前に、鈴木と私はポツリポツリと会話を交わした。それはポジティブな方向に自然と流れていった。二人で出した答えは「山頂まであと標高差700m。こんなのは日本の雪山で何度も登ってきたじゃないか」だった。
翌日、グサグサの稜線をだましだまし登り、部分的にハングした氷に最後の力を振り絞った。
ようやくロープなしで歩けるようになった稜線も、標高4000mを超える薄い空気に苦しめられた。「もう1週間くらい山に入っている感じだな」と鈴木が言う。
ピークを越えても、また目の前に偽ピーク。鈴木がまた同じことを繰り返す。「もう1週間くらい……」数秒後に、「あれ、さっきオレ同じこと言ったっけ?」。自分だけでなく、鈴木も相当に疲労していた。
周囲には、圧倒的なスケールで極北の山々が乱立していた。天気予報に反し、空は海のように深い青色が広がり、風もなかった。聞こえてくるのは、雪を踏みしめる音と、自分の息遣いだけだ。
凍てつく無音の世界で、私たち二人だけが、空と大地の間を動いていた。
山頂直下で鈴木は「先に行ってくれ」と言った。山頂の向こう側には、そこにも果てしなく氷の峰々が続いていた。かみしめるように、ゆっくりと登ってきた鈴木も山頂に立った。鈴木が言った。
「山頂の下で、けいさんや、アラスカで亡くなった友人たちのことを思い出していたんだ……」
彼らが見てきたのと同じ光景を今私たちも見ているのだろうか。
そこからの西稜の下降も長かった。最後はラーメンと呼ばれるガリーを、ロープの確保なしで1000mにわたりクライムダウンした。どれだけの時間がたったのだろうか。私たちはなんとか気力をつなぎとめ、氷河に降りたった。安堵感に包まれたその場所で、鈴木と硬い握手を交わす。
「山頂まで行けてよかった」
北壁を抜けたとき、僕たちはそれまでの限界にいた。だが、ポジティブな会話で、その限界をさらに超えることができた。
日本で登攀を繰り返し、クライミングはすでに自分自身と深い部分で結びついていた。そして、ハンターでクライミングにおける限界を超えたことで、自分自身も境界線を飛び越え新しい自分になれた気がした。
その氷河の上で、最後のビバークとなった。目の前には、未踏の岩壁がそびえている。「あのラインは登れるんじゃないか」暮れゆく空の下でそんな会話を交わした。

夜半に再び寒さに襲われ、眠れずに薄暗闇のなかを歩きだした。
迎えに来てくれる予定になっていた取材班の姿は、氷河のどこにもなかった。広大な白い大地を黙々と歩き続ける。数時間後、ベースキャンプが小さく見えた。そこでチョコレートの最後のひとかけらを食べた。もうすべてが枯渇していた。取材班は最後のシーンを撮りたいだろう。
テントに近づくと私は「平賀さん!帰ってきたよ」と大声で言った。しかし、出てきたのはアシスタントの若者だけだった。
彼は、泣きながら言った。「平賀さんが、一昨日の夜にクレバスに転落してしまって……」私は、返す言葉が見つからなかった……。

炎のバトン
ハンターは、クライミングの技術や知識だけでなく、自分自身の過去から現在までのすべてをつながなくては、山頂までラインを引くことはできないと思っていた。
過去を集約しなくては成すことができない挑戦。そこに過去の重要なシーンを作ってくれた平賀さんが来てくれたのは偶然の巡り合わせだった。平賀さんがいたからこそラインは完成したのだ。にもかかわらず、下山すると彼はいなくなっていた。
登山をしない人は言う、「なぜ危険を冒してまで山に向かうのか」と。
しかしその一方で、平賀さんの映し出してきた映像は、山を知らない人にも勇気と情熱を与えてきた。
山に横溢する緊張感を取り込みながら、壮大な風景にカメラを向けてきた平賀さんが、得てきた感動は計り知れない。彼の見てきた光景は、間違いなく、比類なく美しいものだった。
「誰かが表現しなければアウトドアの感動は他者に伝わらない」
そんな言葉も平賀さんは残していたが、その「感動」を直截的に心身で受けてきた彼は、誰よりもそこから力を取り込んできた。
どこにいても、エネルギーにあふれていた平賀さん。その人物像は、美しい光景と冒険により強化され続けていたのだ。
日本に戻ると、初夏の暑い空気が街を包んでいた。遅れてしまった仕事をこなしながらも、僕は漠然と次の山のことを考えていた。ここで終わることなく、平賀さんの分まで、これからも壮大な山を見ていきたい。
そして日常の向こう側に広がるその美しい世界に向かうためにも、平賀さんがそうであったように、情熱的に日々を送っていきたいと思った。より難しい壁のなかでも命を燃やせるよう、毎日の一瞬一瞬も力強く生きていきたい。
来たるべき冒険は、自分自身を生き切るうえで、なくてはならないものだ。
大石 明弘
oishi akihiro